共同代表メッセージ
令和臨調の発足にあたっての共同代表メッセージ
コロナウイルスという妖怪が世界を闊歩しつつある。膨大な数の人命の損失に加え、人間の社会生活や経済活動に及ぼす破壊的影響によって人類の自己制御力に闘いを挑んでいる。多くの論者が指摘しているように、パンデミックは残酷なまでに変化を推し進め、不可逆的に社会や経済を変貌させる力を持つ。
従って、「コロナ以前」への回帰願望は所詮願望でしかない。むしろ、格差の拡大であれ、政治の分断であれ、地球環境の悪化であれ、グローバルガバナンスの劣化であれ、財政赤字の拡大であれ、コロナ危機はそれ以前から社会にあった断層を露出させることになる。放置しておけば、対立と分断は先鋭化するばかりである。
今回のパンデミックは、自由民主政において格差や人種の問題をめぐって内部の分断と統治能力の劣化が進むのをまるで狙い撃ちするかのように起こった。実際、国内の分断のため有効なパンデミック対策が成立しなかった実例には事欠かない。
また、コロナ禍はデジタルトランスフォーメーションと第四次産業革命を推進する強力な契機になるが、それは格差問題などの更なる深刻化につながり得る。それへの対策としての大胆な財政出動は深刻な財政状態の悪化と株価変動による資産格差の増幅といった新たな難題を生み出している。さながら、制御不能な玉突き事故を見ているように。
コロナ危機と戦う中で、政府の権限・機能は水際対策から医療資源の調達までを含め急速に広がる可能性が出てきた。これは否応なしに脱グローバリゼーションへと舵を切ることにつながり、これまでの自由化一辺倒の路線から必要に応じた自由の制限という苦手な政策領域へと足を踏み込むことになった。
それは自ずから非自由主義体制との境界線の曖昧化につながりかねない側面をはらんでいる。そうした中で問われているのは「メッキの剥げた」自由民主政にコロナ後の厳しい諸課題に取り組む力量があるか否かであり、かつて先進国と称していた国々はそれぞれに持続可能性問題を抱えていると言って過言ではない。
そこに垣間見られる共通の病理として、怒りと憎しみに促されて事実さえ無視するポピュリズムの傾向がある。ワクチンやマスクをめぐる論争によって幾多の生命が失われたことは改めて指摘するまでもない。また、選挙結果を事実として認めないというトランプ主義の暴走にも驚かされた。自由民主政が強みを発揮するためには先ずは事実認識の共有が必要になるが、われわれはコロナ危機が流言飛語の大量流通による情報汚染を加速した状況から出発しなければならない。
コロナ危機は日本の政治行政システムの実態と限界を浮き彫りにしたが、そのポスト・コロナ禍へのスタートは急速な人口減少とGDP200%に上る財政赤字という条件によって制約されざるを得ない。実際、コロナ禍はこの二つの問題を更に悪化させた。実際の出生数は将来推計人口の想定を超えて前倒しで減少し、消滅可能性都市も増加した。
コロナ禍は財政規律に対する感覚を変容させたように見えたが、金融市場において自己制御力が問題になるのは避けられない。コロナ危機は地球環境問題へのグローバルな関心を喚起するのは必定であり、更には安全保障環境の厳しさも避けては通れない課題を突き付けている。
日本の民主政には二つの道がある。
第一はこれらが容易に解決できない難問であることを知りつつも事実に即し、知恵の限りを尽くして粘り強く長期にわたって戦い続け、未来に対する責任を民主政の矜持をかけて果たし続ける道である。
第二はかつての経済成長の余剰幻想を引きずりながら眼前の安楽にその都度身を任せ、自己満足のうちに時間を費やすことである。これは日本型ポピュリズムというべきものの一変種に他ならず、世界から忘れられたアジアの一後進国への転落の道である。
日本は大分長い間事実上第二の道に慣れ親しんできた。コロナ禍の今こそこれを逆転させなければならない。そのためには政治の精神を変えなければならない。絶望を希望に変えるために敢えて第一の道に結集しようとする参加者の党派は問うところではない。これは党派を越えた民主政の名誉のための、先進国日本の生き残りのための戦いである。
パンドラの箱はギリシア神話で最も人口に膾炙したものであるが、箱を開けたことによって人間世界にあらゆる災禍がまき散らされ、箱の中に残ったのは希望(エルピス)のみであったという。
詩人ヘシオドスは希望を頼りに生きることになった人間について、準備万端農業に勤しむ人間の抱く希望との対比で、勤勉さに無縁で「空しい望みのかなうのを空頼み」するような人間につきあう希望は「どうせろくな希望ではない」と酷評した。
しばしば、政治は希望を語らなければならないと言われるが、希望の持つ落とし穴を見失わない力こそ民主政の持続可能性の基盤であることは言うまでもない。
2022年2月28日